Tove Jansson

Helsinki 9.8.1914 – Helsinki 27.6.2001

生まれながらの芸術家

トーベ・マリカ・ヤンソンは1914年8月9日、フィンランドの首都ヘルシンキで、ヴィクトル・ヤンソンとシグネ・ハンマルステン・ヤンソンの長女として生まれました。父は彫刻家、母はグラフィックアーティストという芸術一家で、トーベと二人の弟、ペル・ウーロフ(1920年生)とラルス(1926年生)は、「まるで呼吸するように」芸術に親しんで育ちました。

父ヴィクトルはスウェーデン語系フィンランド人、母シグネは留学先のパリでヴィクトルと出会ったスウェーデン人でしたから、トーベ自身ももちろん、スウェーデン語を母語として育ちました。フィンランドは建国以来、フィンランド語に加えスウェーデン語も公用語としていますが、スウェーデン語系は国民全体の1割未満(現在は更に減って5%程度)にすぎない少数派でした。それは、例えば街を歩いても自分と同じ言葉を話している人がほとんどいないということを意味します。言語少数派として育ったことは、トーベの思想に大きな影響を与えたと言われています。

父ヴィクトルはトーベの幼少時代から既にフィンランドでは著名な彫刻家でした。その作品は今日、ヘルシンキの中心であるエスプラナーディ公園をはじめ、街中で見ることができます。ただファインアーティストの常として、その収入は決して安定的なものではありませんでした。代わって母シグネが、イラストレーター/商業デザイナーとしての収入で生計を立てていました。家計と生活の両方を支えながらいつでもおおらかな母と、しっかり者の妻のお陰で思うまま芸術を追求して生きることが出来た父の姿は、そのままムーミンママとムーミンパパに重なるかのようです。

ヤンソン一家は、フィンランド人家族の例に漏れず、毎年夏の数週間を自然豊かな郊外のサマーハウスで過ごしました。はじめは母方の祖父が住むストックホルム近郊の多島海に浮かぶ島で、1920年以降はフィンランドのペッリンゲ群島地域で。家族とともに天衣無縫に過ごした夏の日の幸せな記憶は、ムーミンの物語に色濃く反映されています。

幼い頃から芸術家を天命と考えていたトーベが、その長いキャリアをスタートしたのはわずか十四歳の時、雑誌やポストカードのイラストレーターとしてでした。プロとして収入を得ながら、十代後半はストックホルムで商業デザインを、ついでヘルシンキで美術を学び、二十代になると奨学金を得てはフランスやイタリアに渡って見聞を広め、絵画技術を習得しました。帰国後は定期的に油彩画の個展を開く一方、イタリアで学んだフレスコ画の技法でヘルシンキ市庁舎をはじめ数多くの公共建築に壁画を描き、画家としての地位を築いていきました。

生まれながらの芸術家

ムーミンのはじめのはじめ

トーベがストックホルムの工芸専門学校に通っていた10代の頃、寄宿先のエイナル叔父さんが、夜中に台所でつまみ食いをした姪にこう言ったそうです。
「レンジ台のうしろには、ムーミントロールといういきものがいるぞ。こいつらは首筋に息を吹きかけるんだ。」
その、少女トーベを断罪するかのような小さないきものの存在は、家族と離れて、少々遠慮がちに親戚の家に暮らしていた食べ盛りの少女の心に、よほど深く印象づけられたのでしょう。絵日記にも、トーベがそのときどんなに驚いたか、生き生きと描き残されています。

また、やはり10代の頃、上の弟ペル・ウーロフと哲学について議論をし、言い負かされた悔しさから、弟を鼻の長い醜いいきものとして、別荘のトイレに落書きしました。(そのほかにもいろいろな落書きで埋め尽くされているトイレの壁紙は、今もトーベの親族の手元に残っています。)その醜いいきものはどうしてかトーベの心に残ったようで、画家として身を立てようとしていた20代の頃には、それとよく似た(でも黒い身体に赤い眼をした)いきものを、たびたび作品に描きました。

1939年に第二次世界大戦が始まり、フィンランドもソ連の侵攻により否応なく戦争に巻き込まれていきました。戦争に強く反対していたトーベは、15歳からイラストを描いていた政治風刺雑誌「ガルム」に、独裁者たちを痛烈に笑いのめす風刺画を描くようになり、そしてそれに実名で署名することを止めませんでした。いつからかその署名のすぐ横に、あの鼻の長いいきものが顔を覗かせるようになりました。いつでも怒っているか困っているかのそのいきものは、まるで戦争に抗うトーベの分身であるかのようでした。

トーベがムーミンの物語を書き始めたのは、そんなさなかのことでした。

ムーミンのはじめのはじめ

戦争のおわりとムーミン物語のはじまり

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 1939年、戦争の冬のことです。仕事はぱたりといきづまり、絵をかこうとしてもしかたがないと感じていました。
『むかしむかし、あるところに』という出だしではじまる物語を書こうと思ったのも、むりのないことかもしれません。でも、王子さまや、王女さまや、小さな子どもたちを登場させることはやめて、そのかわりに、風刺まんがをかくときサインがわりにつかっていた、怒った顔をしたいきものを主人公にして、ムーミントロールという名前をつけました。
 とちゅうまで書いた物語は、1945年になるまで、そのままほったらかしになっていました。ところが、ある友だちがこう言ったのです。これは子どもの本になるかもしれない。書きあげて、さし絵をつければ、出版できるかもしれないよ、と。
 頭をひねったあげく、本のタイトルは、「パパをさがすムーミントロール」――――――「キャプテン・グラント」の探求物語がモデル――――――のようなものにしたかったのですが、出版社は「小さなトロール」を入れたほうがいいと言いました。そのほうが読者にわかりやすいというのです。
この物語は、わたしが読んで好きだった、子どもの本の影響をうけています。たとえばジュール・ヴェルヌやコローディ(青い髪の少女)などが、ちょっぴりずつ入っています。でも、それがいけないということはありませんよね?
 とにかく、これはわたしがはじめて書いた、ハッピーエンドのお話なのです!

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トーベ・ヤンソン  冨原眞弓訳
(講談社ムーミン童話全集『小さなトロールと大きな洪水』 作者序文より)


1945年、長かった戦争はようやく終わりました。戦後の混乱の中、後に世界を席巻するムーミンシリーズの第一作『小さなトロールと大きな洪水』は、粗末な装丁でひっそりと出版されました。ムーミントロールの母子が、失踪してしまった父を捜す道のりを描いた物語です。表紙を入れても48ページしかない小冊子で、本屋ではなく駅の売店や新聞スタンドに並べられたといいます。

戦争のおわりとムーミン物語のはじまり

イギリスへ、そして世界へ

この第一作は商業的には決して成功とはいえず、それどころかわずかな部数で絶版となったきり、以後トーベ自身の意向によって1991年まで再版されず「幻の作品」となるのですが、幼い頃から絵を書くことと同じくらいお話を作ることが好きだったトーベは、画業の傍らこつこつと執筆を続け、次々に続編を発表していきました。

1948年の第三作『たのしいムーミン一家』は、ついに母国フィンランドと隣国スウェーデンで大きな評判をとりました。ただそれでもそれが英訳され、児童文学王国イギリスで出版されたのは、いくつもの偶然に助けられてのことでした。ところがこの北欧の小国からきた奇妙ないきものたちのお話は、たちまちのうちに目の肥えたイギリスの読書人たちの心を掴み、思いがけない大ヒットとなったのです。

さらにそれをきっかけとして1954年に始まった、当時世界最大の発行部数を誇ったロンドンの夕刊紙 「イブニング・ニュース」での漫画連載が、ムーミンの人気を決定づけました。イギリスにとどまらず、その年のうちに早くもスウェーデン、デンマーク、そして母国フィンランドの新聞に、さらに最盛期には40カ国、120紙に転載されたほどでした。漫画で火がついたムーミンの人気は、すぐにオリジナルの児童文学シリーズも及びました。次々に各国語に翻訳され、イギリスばかりでなくヨーロッパ中で人気と同時に高い評価を獲得していきます。トーベは児童文学作家としての国際的な名声を不動のものにしました。

※画像 ムーミン・コミックスの連載開始を伝える「イブニング・ニュース」の宣伝車
イギリスへ、そして世界へ

「冬」との出会い

でもその一方で、過熱する「ムーミン ブーム」は、本来自分を画家であると考えていたトーベから絵画制作の時間を奪い、代わりに締め切りのプレッシャーと、山のような契約書、自ら行ったすべてのキャラクターグッズやムーミンを使ったプロモーションの監修、打ち合わせにつぐ打ち合わせ、メディアからのインタビュー、世間からの激しい毀誉褒貶をもたらしました。彼女は次第に疲弊し、ついにはムーミンを憎むようにさえなりました。そんな頃に出会ったのが、後半生のパートナーとなるグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラでした。

トーベはトゥーリッキとの交際から、自身が倦み疲れきっていた見知らぬ世界、自分が有名人であり、自分の書くものに何百万人もの読者がいる世界にどのように向きあうべきかについて、大きな示唆を得ました。その体験をそのままムーミンの世界に置き換えて書かれたのが、冬眠をするムーミントロールが、まったく見知らぬ世界である「冬」と初めて向きあう姿を描いた『ムーミン谷の冬』です。

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私が新聞連載の締め切りやら印税のことやらに苦しめられるように、冬に散々な目に遭わされるムーミントロール。難しいだろうけど、そんな風に描いてみなさいよ、とトゥーティが言ったのです。物語はムーミントロールが自己を解き放ち、ある意味自分の顔を獲得するという作品になったのでした。
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ボエル・ヴェスティン/畑中麻紀・森下圭子訳
フィルムアート社「トーベ・ヤンソン人生、芸術、言葉」

こうして作風を一新した第六作『ムーミン谷の冬』は1957年に出版され、ムーミンの新刊を待つ子どもたちから熱狂的に迎えられただけでなく、それまで以上の高い芸術的評価を得て、フィンランドとスウェーデンで多くの文学賞と、挿絵に対しての美術賞を受賞しました。もはやムーミンは単なる児童文学でも漫画でもなく、文学、美術、哲学、言論、精神医学など様々な分野からの注目を集める存在になったのです。

※画像 『ムーミン谷の冬』挿絵 トゥーティッキとムーミン
「冬」との出会い

母との別れとムーミン小説のおわり

1959年、ついにトーベは連載漫画の仕事を、それまでも英語への翻訳から始まってストーリーの原案づくりまで手伝うようになっていた末弟のラルスに引き継ぎ、念願だった絵画制作のための時間を手に入れました。さらに1964年には沖合の孤島クルーヴハルに小屋を立てはじめ、その年からトゥーリッキと二人、夏の数ヶ月を世間から隔絶された環境で、芸術に没頭して過ごすようになります。画家トーベ・ヤンソンは60年代だけで五度の個展を開催しています。

そんな中でもムーミンシリーズの執筆は続きました。1962年にはシリーズ唯一の短篇集である第七作『ムーミン谷の仲間たち』、1965年には、パパの発案で移住した灯台のある島で、ムーミン一家がアイデンティティの危機を迎える第八作『ムーミンパパ海へいく』を出版。トーベとシリーズへの評価はますます高まり、1966年にはついに、児童文学における最高の栄誉とされる国際アンデルセン賞を受賞します。

1970年、『ムーミンパパ海へいく』と対をなす第九作『ムーミン谷の十一月』の原稿を書き上げ、あとは挿絵の制作を残すのみとなっていた時、トーベに大きな影響を与え続けた母シグネが他界しました。トーベが受けたショックは計り知れないほど大きなもので、しばらくは母の名前を口にすることすらできなくなったといいます。

『ムーミン谷の十一月』は、母との別れを予感していたかのように、ムーミン一家の不在が描かれる物語です。それぞれに問題を抱え、一家を頼ってムーミン屋敷に集まった人々が、その不在に途方に暮れつつも、帰りを待ちながら奇妙な共同生活を送ります。その過程で、彼らの問題は思いもよらない形で解決していきます。物語は最後に、ムーミン一家の帰還を予感させ、希望とともに終わるのです。

大きな悲しみの中で、それでもトーベは『ムーミン谷の十一月』を完成させました。そして同時に、ムーミンの小説シリーズの完結を宣言しました。以後、トーベは作家としてのフィールドを大人向けの一般小説に移すことになります。’70年代から’80年代にかけてコンスタントに作品を発表し、1982年にはこれらの作品により(『ムーミン谷の仲間たち』『ムーミン谷の十一月』に次ぐ三度目の)フィンランド国民文学賞を受賞しています。

母との別れとムーミン小説のおわり

アート、人生、仕事、そして愛

でも、小説シリーズの終わりは、ムーミンの物語の終わりではありませんでした。トーベ自身、その後に絵本を2冊著したのに加え、舞台、オペラ、実写テレビシリーズ、パペットアニメーション、みなさんもよくご存知の日本で制作されたアニメ、美術館、テーマパークとその世界は広がっていき、トーベはそのどれにも精力的に関わり続けました。

1991年、体力の衰えから77歳でついにクルーヴハルを引き上げますが、その後もヘルシンキのアトリエで執筆活動を続けました。最後の小説、短篇集「メッセージ」を発表したのは1998年。その3年後に86歳で天寿を全うするまで、筆を置くことはありませんでした。

トーベはその長く並外れたキャリアを通じて、とても一人の仕事とは思えない幅と量の作品を遺しました。油彩画家であり、フレスコ画家であり、イラストレーター、風刺画家、児童文学作家、漫画家、絵本作家、作詞家、舞台美術家、商業デザイナー、映像作家、そして小説家でもあった彼女の人生は、どんな時でもまず仕事ありきだったといいます。でもその仕事は日々の生活の中から生まれました。家族、友達、愛した人々と、彼女が経験した出来事が、時には明示的に時には暗示的に、あらゆる作品に現れています。彼女にとって、グラフィックアートと文学、芸術と人生、仕事と愛の間に境界線はなく、すべてはひとつだったのです。

アート、人生、仕事、そして愛